刀ステ悲伝の感想とか考察とか
今回の文章は、個人的な解釈によるものです。浅学浅慮が多分に含まれますがご容赦ください。
①ステ初見時の感想など
審神者は存在そのものが罪だったし、鶯丸のログインボイスはめちゃくちゃに救いだった。
結局はそこなんですが、過程がめちゃくちゃ長くなりました。以下全文。
ステ本丸を見てまっさきに浮かんだのは、審神者はなんて罪深い存在なんだろうという、後悔みたいな気持ちでした。
ステ本編、大前提として、現時点では歴史修正主義者による歴史改変が成功した例は確認されていない。そしてそれは、これから先も未来永劫、確定事項なのではないかと三日月は言う。
確かに〜と思いました。だってもし歴史改変が成功したなら、刀剣男士も審神者も、その存在を綺麗さっぱり消されるんじゃないの?
逆に言うと、我々が存在している時点で、未来の勝利ー歴史改変の阻止は約束されているのでは?
仮にそうだとしたら、我々が束になって、日々無数の戦いを繰り返すことに意味はあるのか。
物に心を与えてまで、自らの手による殺戮を強いることに意味はあるのか。
審神者としてはこの問いかけがひどく刺さりました。安易な気持ちで審神者になり、戦いへ加担した私という審神者は、正直この戦いの行く末も、そこにともなう痛みも、さほど気にかけたことがなかったのです。
円環の中にある三日月にとっては、その戦いの無意味さがことさら堪えることでしょう。
それに、足利義輝は三日月宗近の美しさを目にし、戦うことをやめた。また、すべての人々が(人間、刀剣男士を問わず)、三日月は美しいと言う。もしかすると三日月の本質というのはその美にあって、戦うことは望んでいないのかもしれない。人々も三日月には、美しくあることを望んでいて、たくさん斬って殺すことは望んでこなかったのかも。三日月は特に、人の思いに応えようとしてくれる節があるようだし…(「俺の負けでもいいんだが…」という台詞が急に重くなってつらい)
一方、この本質という点において、今回、三日月と対照的な立場に立ったのが燭台切と歌仙ではないかと。
歌仙は繰り返し、「刀の本分を忘れるな」と言う。そして燭台切は、自らが元主から受け継いだ本分は、戦うことだと結論づける。
それもまた間違いではない。対立したというだけで、三日月の美も燭台切(と歌仙)の武も、それぞれが真実であり本質であり、正義だ。
三日月だって、異とするだけで、戦うという本質も否定はしていないと思う。実際には、その両方を持ち合わせる刀剣が多いだろうし。
結局、この戦いの虚しさを思った三日月は、刀解されることで一旦の終わりを迎える。そしてまたいつぞやの地点から、同じ戦いを繰り返し始めるのだろう。
三日月は山姥切に「いつかお前が円環を断ち切ってくれるのかもしれない」と語りかける。しかし、その言葉が真実となった時、三日月が刀解を免れ、あの本丸の刀たちと末永く仲間でいられることになったとしたら、それはすなわち未来が変わるということだ。ともすれば、それは歴史改変とどう違うのか。歴史改変が成功していない以上、刀剣男士たちが存在している以上、この言葉が真実になることはない。一度辿った道はどうしたって変えられない。
三日月が口にしたあの願いは、決して叶うことはなく、叶えようとすることさえ許されない。
三日月はそれをわかっているんだろうなと思うと、ラストシーンさえあまりに虚しくて、ここまで悲しんで苦しんで、各々が悩み抜いて下した決断も、いったい何になるんだろうと考えざるをえません。少なくとも三日月にとっては、決断のその先に未来はない。
あの三日月を幸せにすることは絶対にできない…という一点だけでも、私が何の覚悟もなしに審神者になったことを後悔するには、十分すぎる一撃でした。
ステ本丸の三日月の在り方は、足利義輝の生き様と大きく重なっていたようにも思えました。
「あのとき俺は使われなかった」と繰り返した三日月。しかし、最後の永禄の変において、足利義輝は三日月宗近を手にした。
三日月の言う「あのとき」がどの永禄の変を指していたのかは定かではないですが、義輝が三日月宗近を手に取ってもなお、やはり振るうことはないのだということは最初からわかっていたのだと思う。
叶わないとは内心気づいていながらも、それでも守りたいものがあった。そして最期は愛するものに送られたい。
義輝と同じように三日月にも、そんな思いがあったのかな…
「不如帰と書くあの鳥は、帰りたいのか、帰りたくないのか」
義輝が口にした言葉の、答えは結局のところわかりません。
三日月はその存在が本丸を終わり(死)へと導いてしまうという点でほととぎすだったんだと思います。しかし、本丸を愛し大切に思っていることもまた事実。
本丸での日々を、仲間を愛おしく思う時、三日月はまた円環のはじめに帰りたいと思うのだろうし、しかし円環の果てでは自らがその本丸を危険に晒すのだから、やはり帰りたくないとも思うだろう…
それが、特に深く足利に根ざしたあの三日月宗近という刀剣男士の因果なのかなあ…つらい。おじいちゃんにも大切なかつての主が、悔やんでも悔やみきれない過去があるんだって、私は今の今まで想像することすらなかった。
各刀剣男士の在り方を克明に描きつつ、審神者はどうして戦ってるの?考えたことある?っていうのを一気に突きつけられた気分。
刀剣男士がこんな風に悩み苦しみながらも、それでも今の主になんとか尽くそうと、懸命に日々を生きてるって知ってた?っていうのも…
正直イケメンにちやほやされたいくらいの軽率な理由で審神者はじめて、好みだったりレアだったりする刀剣男士を手に入れるために何も考えずに出陣して、怪我は手入れ部屋でなおるけど、それじゃ取り返しのつかない痛みを刀剣男士たちに強いてって…そこまでして、なんで私は審神者やってんの???ってめちゃくちゃ自問自答してる。しかも答えは出せない。絵に描いたようなダメ審神者だなと思う。
「刀と人」は「武器と使い手」であるという関係性はそのままに、実際に武器を振るう役割、平たく言えば汚れ役は刀剣男士に丸投げって、そんなあこぎなやり方あるかよって今さら反省もしてる。
でも、いくら反省したって私がその役割を担える訳でもないので、刀剣男士につらい思いをさせたくないなら、そもそも審神者になんてなるべきじゃなかったんだよな…そんなことも考えずに審神者になってごめん…
せめてちょっとでも救われたいので、もうひとつの可能性の話。
大前提をひっくり返すことにはなるけれど、「歴史改変の阻止が成功している」というのも一つの仮定に過ぎない。
もしかしたら、この戦いは終わらないのかもしれない。未来永劫、刀剣男士が戦い続けるから、歴史改変も阻止され続けているのかも。
それはそれで結局地獄なんですが、まだ少しは、この戦いに意味が見出せるのかな…どうかな…
ところで、根っからの美術刀として、他の誰ともアプローチの仕方が違うなと、ある意味異彩を放っていたのが鶯丸。
「武」と「美」の両方が刀の本質としてあるなら、鶯丸もまた本質のほとんどを「美」とする立場だろうと思います。
意外だったのは、ゲームでは飄々として見えた鶯丸が、全体を通して「主のために」かなりの積極性と主体性を見せたところ。
言われたことのみを過不足なくこなすタイプかと思いきや、自ら場の調整役のようなものも買って出る。
何かと焦点が当てられるのは三日月の隠れた自己犠牲ですが、鶯丸もひけらかすことはないものの隠し立てることもなく、三日月と同じ、どこか達観した視点からの献身を見せているなと。(また、鶯丸はかつての主に対する言及が少なく、「今代の主に対する」忠誠という部分が目立って見える)
三日月は、審神者を、本丸を思い、立ち去っていった。
一方、今回のステを通して、ある意味なじられ、存在そのものを否定されたようにさえ思える審神者に、鶯丸は誰よりも親身に寄り添っているのかもしれない。
「他人が何て言うかなんかどうでもいい。それを伝えられたらと思っていた」
②「鵺と呼ばれる」はやっぱり三日月だよな?と思った上での考察
あの永禄の時代、ゆがんだ時空の中では、「悲願」が形になるのかなあと思いました。
あの場所にうずまく悲願はいくつもあって、まずは義輝の「幕府再興」「ここで死ぬわけにはいかない」という思い。
次に義輝との縁もあって現れた伊達政宗の「天下を取る」という思い。
そして、三日月の「円環を断ち切る」あるいは、「あのとき義輝を守りたかった」という思い。
伊達政宗の悲願がものに宿り、形となったのが黒甲冑なら、義輝と三日月の悲願に応じ形を持ったものが「鵺と呼ばれる(時鳥)」だろうと。
三日月と「鵺と呼ばれる(時鳥)」は、ストーリーが進むにつれてどんどん似ていって、最終的にはもうほとんど同じ太刀筋に同じせりふ…
考えてみれば二振りは置かれた境遇もよく似ていて、「鵺と呼ばれる(時鳥)」は義輝を、三日月は本丸を、守りたくても守れない…という歴史を繰り返している。
「鵺と呼ばれる(時鳥)」と三日月は、在り方(誰の刀か、何をすべき刀か)こそ違えど、主を守りたいという思いは同じ。
「人の歴史を終わらせるわけにいかない」と言ったのは「鵺と呼ばれる(時鳥)」、「俺は未来をつなげたいのだ」と三日月、このあたりの思いも根は似ているのでは。
だから三日月は冒頭のシーン、義輝の「お前がほととぎすか」という問いに、肯定も否定もしなかったのかな〜とも思ったりしました。さすがに考えすぎな気もするけど…
三日月が「鵺と呼ばれる(時鳥)」を折ることなく見逃し、「俺は賭けてみたい」と言ったのは、「鵺と呼ばれる(時鳥)」に自らの悲願も託されていることに気づいたからなのでは。
「鵺と呼ばれる(時鳥)」が円環の中に現れるのは、どうやら今回が初。
舞台となっているあの時空がどんどん狂っていき、悲願を形にする力も強くなっているのか、悲願の方が日に日に切実になっているのか…
三日月は「鵺と呼ばれる(時鳥)」に、「おぬしが歴史に抗うなら…」と語りかけましたが、ここで三日月が口にする「歴史」というのは、義輝の死ではなく、繰り返される円環の方かもなと思ったのでした。
さすがの三日月も、「鵺と呼ばれる(時鳥)」が義輝を守りきるかもしれないと思ったら、それは阻止しただろうし…
二条の狂い咲きの桜も三日月と重なるんだろうと思います。
時空のゆがみの象徴は、あの場所では桜で、本丸では三日月で…
義輝の血を吸った桜から顕現した「鵺と呼ばれる(時鳥)」は、つまりは義輝の「ここで死ぬわけにはいかない」という執念が、三日月の悲願(ものに宿る心)を励起し、墓標となった義輝の刀たちを依り代にして顕現したもの。
顕現の理屈は「鵺と呼ばれる(時鳥)」も刀剣男士と一緒、だからあの破壊表現だったのかな。
素直にいけば三日月オルタ的なものが顕現しそうだけど、そこは依り代が「三日月宗近」ではなかったからセーフだったのかな?それで、イフとしての「鵺と呼ばれる(時鳥)」?
刀剣乱舞で桜が舞うのは、基本的には顕現の時だと思ってたんですが(♪桜吹雪ひらり顕現し~…とあるくらいだし)、三日月は刀解されるときにも桜を舞わせていたから、やっぱりあの二条の桜は三日月だったのかな〜…
こっからは「鵺と呼ばれる(時鳥)」についてと、審神者の功罪について。
「鵺と呼ばれる(時鳥)」=三日月とは言ったけど、でもでも、「鵺と呼ばれる(時鳥)」に重なるのは三日月だけではない。
三日月が筆頭だというだけで、とりわけ縁が深いというだけで、「守りたくても守れなかった」という後悔は多くの刀の心中にある。
不動はその後悔に共鳴して「あいつは俺たちだ!」と叫ぶ。
やはり私は、刀剣男士たちの悲しみについては、審神者が諸悪の根源だっていう思いがあるので…あのシーンはつらい…
刀に寄せられた思いは、その刀が背負う物語になるという。
例えば三日月宗近。
三日月にはみな「この刀は美しい」という思いを寄せ、三日月はその美しさをもって、義輝を思いとどまらせ歴史改変を食い止めた。
次に義輝は三日月に「天下に聞こえる名刀であれ、後世まで伝われ」という思いを寄せ、数百年後、三日月宗近は刀剣男士の中でもとりわけ重要な一振りとなった。
それが良いのか悪いのかというと、どうなんだろう…っていうのが正直なところです。
三日月だって、他の刀と同じように迷いも後悔もあるのに、いつも周囲を導く側に立たせられる。
それが周囲の望むことであり、三日月に寄せられる思い、つまり三日月が背負う物語。
だから、三日月と同じように導く側であることを望まれる小烏丸に対して「肩の荷が下りた」という発言があったのかもしれない。
円環をめぐる役回りがどうして三日月じゃないといけなかったのか。
たとえば山姥切じゃだめだったの?ってことなんだけど、つまるところそれは、メタ的にいえば私たち刀剣乱舞ユーザーの多くも、三日月宗近にはどこか特別であってほしいという思いを寄せているから…その思いが三日月の物語になって…「舞台 刀剣乱舞」が生まれるってことなのでは…
ここまでいくと私が卑屈すぎる気もするけど!
時鳥の破壊ボイス、
果たされなかった願いも
届かなかった思いも
この暝目の世界も
ぜんぶが俺の物語だ
帰りたい
帰りたくない
俺たちはどこへ向かっているんだろうな
「俺の物語」、つまり時鳥に寄せられた思いは、多くの悲願。
「帰りたい、帰りたくない」、これは時鳥に思いを寄せたものみんなの心境だろうな。
円環のはじめへ、後悔の残る過去へ。帰りたいのか帰りたくないのか…
こちらの勝手で心を与えておきながら、それ故の迷いや悲しみへの答えを探させるでもなく、日々無数の戦いを強いている審神者には、ヘビーすぎる破壊ボイスなのでした。
つらい。
「三日月宗近は、虚であったか?」
「三日月宗近に、義はなかったか?」
「三日月宗近は、如何なる刀であった?」
虚伝、義伝、如伝と… 今までの公演タイトルになぞらえていて、深いなあと。
小烏丸の役割もおそらく重大ななにかなのに、頭が追いつかなくてちっとも読み解けない…
鶴丸も少しくらいなにかを知ってそう。鶯丸はどうなんだろうなあ…
本編中の様子
・敵(黒甲冑)の間合いに残ってしまった大包平を引っ張りあげる
・敵(黒甲冑)の攻撃で弾き飛ばされた骨喰を受け止める
・空気が読める
・指揮系統を明確にする(山姥切に指揮権があることを明言し、それに従う意思を示す)
・個々人のフォローにも回る
・理由はちゃんと説明する(なぜ自分が三日月たちを追うのか)
・軍議の際、みんなが光忠に気を取られる中、鶯丸(と鶴丸と小烏丸)は三日月の異変に気がつく
・空気が読める
・空気が読める
軍議のくだりなんかは、なるほど鶯丸も小烏丸の言う「古い刀」に含まれてるんだろうなあと思わせてきてとてもよい。
空気は絶対読めない(読まない)タイプだと思ってたごめん…
久々にお気に入りの同人誌読んだら生き返った話
一冊の同人誌(小説)なんですが、なんかもうやたらに好きで、
私も趣味で文章を書きます。そんで、
好きなものに触れた時、
自分で文章を書く作業は、旅行先で撮ってきた写真をSNSにアッ
「
とはいえ、
「あ~
この一冊が手元にあることは強い、
かれこれ数年、何度も読み返した。
そんな風に、
今日はまた久々にその本読んで、
私の親しい人たちが、別に本には限らなくていいので、