刀ステ悲伝の感想とか考察とか

今回の公演(もといステで描かれたとある時間軸のとある本丸の一部始終)を見て、思ったことのまとめ。

今回の文章は、個人的な解釈によるものです。浅学浅慮が多分に含まれますがご容赦ください。 


①初見時の感想
②「鵺と呼ばれる」について
③大千穐楽について
④その他諸々

※③以外は元々ふせったーにまとめてたものです。


①ステ初見時の感想など


審神者存在そのものが罪だったし、鶯丸のログインボイスはめちゃくちゃに救いだった。 
結局はそこなんですが、過程がめちゃくちゃ長くなりました。以下全文。


ステ本丸を見てまっさきに浮かんだのは、審神者はなんて罪深い存在なんだろうという、後悔みたいな気持ちでした。
我々になんの権利があって、刀剣男士たちにあれほどの悲しみを強いているのか…

ステ本編、大前提として、現時点では歴史修正主義者による歴史改変が成功した例は確認されていない。そしてそれは、これから先も未来永劫、確定事項なのではないかと三日月は言う。 

確かに〜と思いました。だってもし歴史改変が成功したなら、刀剣男士も審神者も、その存在を綺麗さっぱり消されるんじゃないの? 
逆に言うと、我々が存在している時点で、未来の勝利ー歴史改変の阻止は約束されているのでは? 

仮にそうだとしたら、我々が束になって、日々無数の戦いを繰り返すことに意味はあるのか。 
物に心を与えてまで、自らの手による殺戮を強いることに意味はあるのか。 

審神者としてはこの問いかけがひどく刺さりました。安易な気持ちで審神者になり、戦いへ加担した私という審神者は、正直この戦いの行く末も、そこにともなう痛みも、さほど気にかけたことがなかったのです。 

円環の中にある三日月にとっては、その戦いの無意味さがことさら堪えることでしょう。 
それに、足利義輝三日月宗近の美しさを目にし、戦うことをやめた。また、すべての人々が(人間、刀剣男士を問わず)、三日月は美しいと言う。もしかすると三日月の本質というのはその美にあって、戦うことは望んでいないのかもしれない。人々も三日月には、美しくあることを望んでいて、たくさん斬って殺すことは望んでこなかったのかも。三日月は特に、人の思いに応えようとしてくれる節があるようだし…(「俺の負けでもいいんだが…」という台詞が急に重くなってつらい) 

一方、この本質という点において、今回、三日月と対照的な立場に立ったのが燭台切と歌仙ではないかと。 
歌仙は繰り返し、「刀の本分を忘れるな」と言う。そして燭台切は、自らが元主から受け継いだ本分は、戦うことだと結論づける。 
それもまた間違いではない。対立したというだけで、三日月の美も燭台切(と歌仙)の武も、それぞれが真実であり本質であり、正義だ。 

三日月だって、異とするだけで、戦うという本質も否定はしていないと思う。実際には、その両方を持ち合わせる刀剣が多いだろうし。 

結局、この戦いの虚しさを思った三日月は、刀解されることで一旦の終わりを迎える。そしてまたいつぞやの地点から、同じ戦いを繰り返し始めるのだろう。 
三日月は山姥切に「いつかお前が円環を断ち切ってくれるのかもしれない」と語りかける。しかし、その言葉が真実となった時、三日月が刀解を免れ、あの本丸の刀たちと末永く仲間でいられることになったとしたら、それはすなわち未来が変わるということだ。ともすれば、それは歴史改変とどう違うのか。歴史改変が成功していない以上、刀剣男士たちが存在している以上、この言葉が真実になることはない。一度辿った道はどうしたって変えられない。 
三日月が口にしたあの願いは、決して叶うことはなく、叶えようとすることさえ許されない。 

三日月はそれをわかっているんだろうなと思うと、ラストシーンさえあまりに虚しくて、ここまで悲しんで苦しんで、各々が悩み抜いて下した決断も、いったい何になるんだろうと考えざるをえません。少なくとも三日月にとっては、決断のその先に未来はない。 

あの三日月を幸せにすることは絶対にできない…という一点だけでも、私が何の覚悟もなしに審神者になったことを後悔するには、十分すぎる一撃でした。 


(追記:この部分、やはり「時の政府が用意した刀剣男士」には歴史改変はできないと思うんですが、もしかしたら、いろいろイレギュラーな存在である「鵺と呼ばれる(時鳥)」なら、歴史に抗うこともできるかもしれないなと思いました。だからきっと、円環を断ち切ることもできる…詳しくは後述します)


ステ本丸の三日月の在り方は、足利義輝の生き様と大きく重なっていたようにも思えました。 

「あのとき俺は使われなかった」と繰り返した三日月。しかし、最後の永禄の変において、足利義輝三日月宗近を手にした。 

三日月の言う「あのとき」がどの永禄の変を指していたのかは定かではないですが、義輝が三日月宗近を手に取ってもなお、やはり振るうことはないのだということは最初からわかっていたのだと思う。 

叶わないとは内心気づいていながらも、それでも守りたいものがあった。そして最期は愛するものに送られたい。 
義輝と同じように三日月にも、そんな思いがあったのかな… 

「不如帰と書くあの鳥は、帰りたいのか、帰りたくないのか」 
義輝が口にした言葉の、答えは結局のところわかりません。 

三日月はその存在が本丸を終わり(死)へと導いてしまうという点でほととぎすだったんだと思います。しかし、本丸を愛し大切に思っていることもまた事実。 
本丸での日々を、仲間を愛おしく思う時、三日月はまた円環のはじめに帰りたいと思うのだろうし、しかし円環の果てでは自らがその本丸を危険に晒すのだから、やはり帰りたくないとも思うだろう… 
それが、特に深く足利に根ざしたあの三日月宗近という刀剣男士の因果なのかなあ…つらい。おじいちゃんにも大切なかつての主が、悔やんでも悔やみきれない過去があるんだって、私は今の今まで想像することすらなかった。 


各刀剣男士の在り方を克明に描きつつ、審神者はどうして戦ってるの?考えたことある?っていうのを一気に突きつけられた気分。 
刀剣男士がこんな風に悩み苦しみながらも、それでも今の主になんとか尽くそうと、懸命に日々を生きてるって知ってた?っていうのも… 

正直イケメンにちやほやされたいくらいの軽率な理由で審神者はじめて、好みだったりレアだったりする刀剣男士を手に入れるために何も考えずに出陣して、怪我は手入れ部屋でなおるけど、それじゃ取り返しのつかない痛みを刀剣男士たちに強いてって…そこまでして、なんで私は審神者やってんの???ってめちゃくちゃ自問自答してる。しかも答えは出せない。絵に描いたようなダメ審神者だなと思う。 

「刀と人」は「武器と使い手」であるという関係性はそのままに、実際に武器を振るう役割、平たく言えば汚れ役は刀剣男士に丸投げって、そんなあこぎなやり方あるかよって今さら反省もしてる。 
でも、いくら反省したって私がその役割を担える訳でもないので、刀剣男士につらい思いをさせたくないなら、そもそも審神者になんてなるべきじゃなかったんだよな…そんなことも考えずに審神者になってごめん… 


せめてちょっとでも救われたいので、もうひとつの可能性の話。 
大前提をひっくり返すことにはなるけれど、「歴史改変の阻止が成功している」というのも一つの仮定に過ぎない。 
もしかしたら、この戦いは終わらないのかもしれない。未来永劫、刀剣男士が戦い続けるから、歴史改変も阻止され続けているのかも。 
それはそれで結局地獄なんですが、まだ少しは、この戦いに意味が見出せるのかな…どうかな… 


ところで、根っからの美術刀として、他の誰ともアプローチの仕方が違うなと、ある意味異彩を放っていたのが鶯丸。 
「武」と「美」の両方が刀の本質としてあるなら、鶯丸もまた本質のほとんどを「美」とする立場だろうと思います。 

意外だったのは、ゲームでは飄々として見えた鶯丸が、全体を通して「主のために」かなりの積極性と主体性を見せたところ。 
言われたことのみを過不足なくこなすタイプかと思いきや、自ら場の調整役のようなものも買って出る。 
何かと焦点が当てられるのは三日月の隠れた自己犠牲ですが、鶯丸もひけらかすことはないものの隠し立てることもなく、三日月と同じ、どこか達観した視点からの献身を見せているなと。(また、鶯丸はかつての主に対する言及が少なく、「今代の主に対する」忠誠という部分が目立って見える) 

三日月は、審神者を、本丸を思い、立ち去っていった。 
一方、今回のステを通して、ある意味なじられ、存在そのものを否定されたようにさえ思える審神者に、鶯丸は誰よりも親身に寄り添っているのかもしれない。 
「他人が何て言うかなんかどうでもいい。それを伝えられたらと思っていた」




②「鵺と呼ばれる」はやっぱり三日月だよな?と思った上での考察


あの永禄の時代、ゆがんだ時空の中では、「悲願」が形になるのかなあと思いました。 
あの場所にうずまく悲願はいくつもあって、まずは義輝の「幕府再興」「ここで死ぬわけにはいかない」という思い。 
次に義輝との縁もあって現れた伊達政宗の「天下を取る」という思い。 
そして、三日月の「円環を断ち切る」あるいは、「あのとき義輝を守りたかった」という思い。 

伊達政宗の悲願がものに宿り、形となったのが黒甲冑なら、義輝と三日月の悲願に応じ形を持ったものが「鵺と呼ばれる(時鳥)」だろうと。 

三日月と「鵺と呼ばれる(時鳥)」は、ストーリーが進むにつれてどんどん似ていって、最終的にはもうほとんど同じ太刀筋に同じせりふ… 
考えてみれば二振りは置かれた境遇もよく似ていて、「鵺と呼ばれる(時鳥)」は義輝を、三日月は本丸を、守りたくても守れない…という歴史を繰り返している。 

「鵺と呼ばれる(時鳥)」と三日月は、在り方(誰の刀か、何をすべき刀か)こそ違えど、主を守りたいという思いは同じ。 
「人の歴史を終わらせるわけにいかない」と言ったのは「鵺と呼ばれる(時鳥)」、「俺は未来をつなげたいのだ」と三日月、このあたりの思いも根は似ているのでは。 

だから三日月は冒頭のシーン、義輝の「お前がほととぎすか」という問いに、肯定も否定もしなかったのかな〜とも思ったりしました。さすがに考えすぎな気もするけど… 

三日月が「鵺と呼ばれる(時鳥)」を折ることなく見逃し、「俺は賭けてみたい」と言ったのは、「鵺と呼ばれる(時鳥)」に自らの悲願も託されていることに気づいたからなのでは。 
「鵺と呼ばれる(時鳥)」が円環の中に現れるのは、どうやら今回が初。
舞台となっているあの時空がどんどん狂っていき、悲願を形にする力も強くなっているのか、悲願の方が日に日に切実になっているのか… 

三日月は「鵺と呼ばれる(時鳥)」に、「おぬしが歴史に抗うなら…」と語りかけましたが、ここで三日月が口にする「歴史」というのは、義輝の死ではなく、繰り返される円環の方かもなと思ったのでした。 
さすがの三日月も、「鵺と呼ばれる(時鳥)」が義輝を守りきるかもしれないと思ったら、それは阻止しただろうし… 

二条の狂い咲きの桜も三日月と重なるんだろうと思います。 
時空のゆがみの象徴は、あの場所では桜で、本丸では三日月で… 
義輝の血を吸った桜から顕現した「鵺と呼ばれる(時鳥)」は、つまりは義輝の「ここで死ぬわけにはいかない」という執念が、三日月の悲願(ものに宿る心)を励起し、墓標となった義輝の刀たちを依り代にして顕現したもの。 
顕現の理屈は「鵺と呼ばれる(時鳥)」も刀剣男士と一緒、だからあの破壊表現だったのかな。 

素直にいけば三日月オルタ的なものが顕現しそうだけど、そこは依り代が「三日月宗近」ではなかったからセーフだったのかな?それで、イフとしての「鵺と呼ばれる(時鳥)」? 

刀剣乱舞で桜が舞うのは、基本的には顕現の時だと思ってたんですが(♪桜吹雪ひらり顕現し~…とあるくらいだし)、三日月は刀解されるときにも桜を舞わせていたから、やっぱりあの二条の桜は三日月だったのかな〜… 



こっからは「鵺と呼ばれる(時鳥)」についてと、審神者の功罪について。 

「鵺と呼ばれる(時鳥)」=三日月とは言ったけど、でもでも、「鵺と呼ばれる(時鳥)」に重なるのは三日月だけではない。 
三日月が筆頭だというだけで、とりわけ縁が深いというだけで、「守りたくても守れなかった」という後悔は多くの刀の心中にある。 
不動はその後悔に共鳴して「あいつは俺たちだ!」と叫ぶ。 

やはり私は、刀剣男士たちの悲しみについては、審神者が諸悪の根源だっていう思いがあるので…あのシーンはつらい… 

刀に寄せられた思いは、その刀が背負う物語になるという。 

例えば三日月宗近。 
三日月にはみな「この刀は美しい」という思いを寄せ、三日月はその美しさをもって、義輝を思いとどまらせ歴史改変を食い止めた。 
次に義輝は三日月に「天下に聞こえる名刀であれ、後世まで伝われ」という思いを寄せ、数百年後、三日月宗近は刀剣男士の中でもとりわけ重要な一振りとなった。 

それが良いのか悪いのかというと、どうなんだろう…っていうのが正直なところです。 
三日月だって、他の刀と同じように迷いも後悔もあるのに、いつも周囲を導く側に立たせられる。 
それが周囲の望むことであり、三日月に寄せられる思い、つまり三日月が背負う物語。 
だから、三日月と同じように導く側であることを望まれる小烏丸に対して「肩の荷が下りた」という発言があったのかもしれない。 

円環をめぐる役回りがどうして三日月じゃないといけなかったのか。 
たとえば山姥切じゃだめだったの?ってことなんだけど、つまるところそれは、メタ的にいえば私たち刀剣乱舞ユーザーの多くも、三日月宗近にはどこか特別であってほしいという思いを寄せているから…その思いが三日月の物語になって…「舞台 刀剣乱舞」が生まれるってことなのでは… 
ここまでいくと私が卑屈すぎる気もするけど! 


時鳥の破壊ボイス、 

果たされなかった願いも 
届かなかった思いも 
この暝目の世界も
ぜんぶが俺の物語だ 
帰りたい 
帰りたくない 
俺たちはどこへ向かっているんだろうな 


「俺の物語」、つまり時鳥に寄せられた思いは、多くの悲願。 

「帰りたい、帰りたくない」、これは時鳥に思いを寄せたものみんなの心境だろうな。 
円環のはじめへ、後悔の残る過去へ。帰りたいのか帰りたくないのか… 

こちらの勝手で心を与えておきながら、それ故の迷いや悲しみへの答えを探させるでもなく、日々無数の戦いを強いている審神者には、ヘビーすぎる破壊ボイスなのでした。 

つらい。


③大千穐楽での演出

気がついた変更点

・山姥切が結いの目で歴史を見るシーン、最後の戦争(第二次世界大戦?)がカットされる

・円環の果てでの手合わせ、山姥切が勝利。
・セリフの追加「煤けた太陽」

→大千穐楽以外では、山姥切が刀を取り落とした際に、三日月が喉元に刀を突きつけ勝利。三日月は「また手合わせをしよう」と声をかけ、「次は俺が勝ってみせる」と言う山姥切に「約束だ」と言い残し刀解される。
→大千穐楽では、刀を取り落としたのは三日月。山姥切が喉元に刀を突きつけ勝利。三日月は「強くなったな」と微笑み、「また手合わせをしよう」と声をかける。山姥切は「もっと強くなった俺が相手をしてやる」と返し、三日月は「楽しみにしている」と言い残し刀解される。

・EDの三日月の表情、今までは固かったものが笑顔に

・三日月の顕現シーン、大千穐楽のみ口調が柔らかい?


やっぱり一番大きな変化は、最後の手合わせで山姥切が勝利すること。
今回、大千穐楽で描かれた円環の一周は、おそらく特別なものだったと思います。この一周で、もしかしたら円環を抜けられる、ものすごく楽観的に見れば、円環を抜けられたかもしれない。

悲伝で描かれた円環では、いくつかの特異点が発生しています。

まずは悲伝全体を通して、

・鵺と呼ばれる(時鳥)が生じる

次に大千穐楽の一周において、

・山姥切が三日月に勝利する
(・第二次世界大戦の描写がカットされる
 ※これはもしかしたら大人の事情かもしれない)

これらは全部「歴史に抗う」ために生じた事象では?
ここでいう歴史=円環のこと。


千穐楽での最も大きな変更点は「山姥切の勝利」と言ったけれど、さらに細かく言うと、その後続くやりとりの中で「今回は約束をしなかったこと」も、大きな意味を持つのかなあと思います。

今までは、これからも円環が続いていくことは確定していた(少なくとも三日月にはわかっていた)から、いつかはそれを断ち切ってくれよ…と言わんばかりに約束が必要だった。
けれど、今回は山姥切が勝利。「次は俺が勝ってみせる」という約束は、この大千穐楽で描かれた一周でようやく果たされた。
それを受けて、次の一周では円環を抜けて未来へ進めるかもしれなくて、だから約束は必要なかったのかもしれない。
そこまで上手くはいかないとしても、次の一周ではさらに強くなった山姥切が、円環を断ち切るのかもしれない。三日月はそれを期待している。

加えて、円環を抜けたかもしれないと思ったもうひとつの理由。
過去公演の並び順を考えた時、虚伝初演に少し違和感があるなと思いました。

今までは、

ジョ伝→虚伝初演→虚伝再演→義伝→悲伝→そしてジョ伝…へのループ

と思ってたんですが、もしかしたらループしていたのは、

ジョ伝→虚伝再演→義伝→悲伝→ジョ伝…

で、円環を抜けた次にあるのが、虚伝初演だったのでは?

初演、円環を抜けた後の一番はじめだから、何度も同じことを繰り返していた再演とは違い、不動の練度が低いし(鯰尾にまったく力が及ばない、投げた石も簡単に弾き飛ばされる)、蘭丸が歴史が繰り返されている違和感に気づくこともない。
再演になるとどうして上下が逆転したり、季節が違ったりするんだろう?って思ってたけど、本丸の時間軸の上では、変化していたのは実は初演の方だったのかもしれない。

思えば、悲伝の最後に三日月の顕現シーンがあるのも意味深でした。もし、初演が円環を抜けた先の物語であるなら、悲伝大千穐楽で顕現した三日月は、虚伝初演の三日月になるのかも。

そうなるとEDでの三日月の表情が柔らかいこと、顕現時の声が穏やかなことにも救いが見出せるなと思います。
今まではまた円環を巡るから、きつい表情にかたい声音だったけれど、今度は続く未来を真っ直ぐに駆けていけるから、本来の穏やかで柔和な姿を見せたのかと。


あとこれは考察というより願望とか妄想なんですけど、大千穐楽では手合わせの際、三日月から山姥切に向けて「煤けた太陽」という言葉が出ました。
手合わせ中、三日月は自身の刀身をじっと見つめます。刀解の力が及び、もはや人の形を保てず真っ白になる中、刀だけは普段通りの姿のままでした。
ここで三日月が見ていたのは、名の由来にもなっている三日月の形をした打ち除けだったのかもなあと。月は太陽の光を受けて輝くもの、もしかしたらようやく、太陽の光が月に届いたのかなって、夢を見ています。
刀身を見つめるシーン自体はずっとあるんですけどね…



④単体で気づいたことや鶯丸のたまらんポイント

小烏丸が長谷部、不動、山姥切に対して、問いかけるシーン。 

三日月宗近は、虚であったか?」 
三日月宗近に、義はなかったか?」 
三日月宗近は、如何なる刀であった?」 

虚伝、義伝、如伝と… 今までの公演タイトルになぞらえていて、深いなあと。

小烏丸の役割もおそらく重大ななにかなのに、頭が追いつかなくてちっとも読み解けない… 
鶴丸も少しくらいなにかを知ってそう。鶯丸はどうなんだろうなあ…


鶯丸の殺陣、最高にロック
下段あるいは脇構えで一見すると防御メインか、相手の脚を狙って殺さずに済ませる(戦闘不能にするにとどめる)タイプかと思ったら、容赦なく急所狙っていくし、背中から斬りつけられた直後、瞬時に相手の胸ぐらつかんで「命を大事にしろ!」って言いつつ首を落とした時はどうしようかと思った。とどめの「まあ、細かいことは気にするな☺️」シビれたぜ。あと結構すぐグーが出る✊‬


鶯丸は他人の言うことは気にしないらしいけど、実際には周囲の様子をめちゃくちゃよく見てるし、万事詳細に正確に察しているらしい。

集団をまったく乱さない上にうまく転がしていく実力もあって、最高に頼りになる刀だった…しかし全部がさりげない…‬ 


本編中の様子‬

‪・敵(黒甲冑)の間合いに残ってしまった大包平を引っ張りあげる‬ 
‪・敵(黒甲冑)の攻撃で弾き飛ばされた骨喰を受け止める‬ 
‪・空気が読める‬ 
‪・指揮系統を明確にする(山姥切に指揮権があることを明言し、それに従う意思を示す)‬ 
‪・個々人のフォローにも回る‬ 
‪・理由はちゃんと説明する(なぜ自分が三日月たちを追うのか)‬ 
‪・軍議の際、みんなが光忠に気を取られる中、鶯丸(と鶴丸と小烏丸)は三日月の異変に気がつく‬ 
‪・空気が読める‬ 
‪・空気が読める‬ 

‪軍議のくだりなんかは、なるほど鶯丸も小烏丸の言う「古い刀」に含まれてるんだろうなあと思わせてきてとてもよい。‬ 
‪空気は絶対読めない(読まない)タイプだと思ってたごめん…‬


以上です!
おかしなところとか、ここはこうじゃない?っていうのがあったら、ぜひ教えてください…

久々にお気に入りの同人誌読んだら生き返った話


 一冊の同人誌(小説)なんですが、なんかもうやたらに好きで、もはやただの同人誌ではなくお守りみたいにしている本があります


私も趣味で文章を書きます。そんで、行き詰った時には必ずその本を読む。文章の具合がなんとも言えず好きで、その文章に触れていると、次第に「私、文字が好きでよかった~!」という気持ちが返ってくる。

好きなものに触れた時、だいたいは声を出して手足をじたばたさせる性分なんだけど、この本に関しては、せっかくだからちょっといいお茶でも淹れようかな…という気持ちの方が強い。私にとって、それだけドストライクなんだろうな。なんの過不足もないから、何回も読める、しんどくない。(盛り上がりに欠けるという意味ではなく)


自分で文章を書く作業は、旅行先で撮ってきた写真をSNSにアップするため、せっせと加工する作業に似てる。それはそれで楽しいんだけど、だんだん視野が狭くなる。

果たしてこれは見やすいのか?」とか「そもそも構図が悪くない?」とか、気になるところばかり増えてきて、結局、完成したから終わり!よりも、疲れたしわかんなくなってきたからこれでいいや!ってところに着地することも多い。

とはいえ、世の中の文章を書く人は大体がこういう状況と戦っているだろうし、単に実力不足と言われれば、まったくもってその通りなので、ぐうの音も出ない。そういう時に手に取りたくなるのが、件の一冊。

「あ~そういえばこの写真に写っているものはあれだな、実際に見るのが一番いいんだったな。よし、旅行いこ!」みたいな気分になれる。

この一冊が手元にあることは強い、とても強い。とりあえずこの一冊があれば、私は文章を書くことを嫌いにならずにいられる。


かれこれ数年、何度も読み返した。たまには旅行先に持って行ったりもしてみた。入手当時学生だった私が疲れ切った社会人になったりもした。

初読の時はたしか、安さをとったら日当たりがいまいちだったワンルームで、読み切っちゃうのもったいないなと思いながらも一気に読んだ。今はその時の気分で、一話ずつとか、ふいに読みたくなった場面だけとかを読んでます。社会人になってからは煙草吸いながら読むので、紙の色が変わってきた気がするんだけど、まあそれも味かな…と思うことにしています…すみません…。

そんな風に、特に行き詰ってない時に読むにしても、やっぱり好きな本だなと思う。特に社会人になってからの疲れによく効く。読んだあとはちょっとだけ時間を取って、フローリングに突っ伏してみたり、窓を開けて外を見たりする。時間を丁寧に使おうという気持ちになるので、そのためにはどうしたらいいかなと思った時、私はとりあえず全部手離して、無の時間をつくりたいと思って、そういう行動につながるんですね。たぶんここは人それぞれ。


思えば昔は、何もなくてもそういう時間を取っていた気がします。新しいものに触れたり心躍るものに出会ったり、そういうことがあれば大きく息を吸ってしばらく目を閉じたものだし、田舎に住んでたのでベランダから水田にあらわれる風紋とかを見てたんだけど、今はそういうこと全然しないんだよね。煙草でも吸わなきゃ大きく息を吸ったり吐いたりすることないし、スマホ見てなきゃ窓際に5分も座ってられない。

一日があっという間に終わるようになって、そんな悠長なことしてられなくなったような気がする。いいものに出会ったらとりあえずツイッターで「すこ」って呟いといて、稲の育ち具合とかはグーグルに聞いてくれよな!って感じ。今も昔も24時間が同じスピードで流れてるなんて絶対うそ。学生とOLの生きる時間軸、遠すぎて笑った。

まあ普段はそれでもいいんだけど、あんまり急いでるとやっぱりどっかで躓くから、そういう時は読む訳です、本を。そこには生活が丁寧に綴られてあって、あっそうそう、こういう時間がね、大事だよねって急に思い出す。たとえば洗濯槽の漂白だとか、シンク磨きだとか、常備菜の作り置きだとか、そういうの私は半ギレで作業してたけど、その本の中に書かれてあるのを読んだら、そんなにキリキリやることもなかったな…もうちょっと穏やかに生きよ…とふいに自分とか時間とか、なんか諸々大事にしよって気持ちが返ってくるので、文章を書く以外のモチベーションも上げてもらえる訳です。ほんといい出会いした。


今日はまた久々にその本読んで、最近だいぶよれよれになってた気持ちがちょっとすっきりさっぱりしたので、せっかくなら記録に残しておこうと思った次第です。

やっぱり自分で文章を書くのも楽しいしストレス発散になるし。

こういう感想って著者本人にお伝えした方がいいのかなって思わなくもないんですが、ほぼ本編の内容には関係ない上に、さすがに重くないですか?とも思うので、個人の書付にしました。なので、こんなところで申し上げたところでほぼ意味はないのですが、この本を世の中に出してくださってありがとうございます!おかげさまで今日も楽しく生きてます!


私の親しい人たちが、別に本には限らなくていいので、こういう自分の中のピリオドみたいな何かに出会えるといいなと思いつつ、おわり。